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会津彼岸獅子
豊作と家内安全を祈り、春の訪れを喜び合う会津の伝統行事
「会津彼岸獅子」
毎年3月に鶴ヶ城、阿弥陀寺他市内各所で舞を披露します。
文化的価値も高い評価を受けている会津彼岸獅子。
今回は会津彼岸獅子の歴史と由来について紹介します。
[ad#codo1]会津彼岸獅子の特徴
一人立ち獅子が3匹で踊る「三匹獅子舞」
3匹の獅子は、いずれも太夫獅子(たゆうじし=雄)・雌獅子(めじし)・雄獅子(おじし)で構成されています。
3匹の獅子が笛と太鼓の音色に合わせて、舞を披露しながら市内を周っていきます。
会津彼岸獅子は会津若松市無形民俗文化財にも指定されていており、文化的価値も認められているんです。
「彼岸獅子」は、通常の獅子舞とは違います。
何が違うかというと、一体をひとりで演じるところです。
獅子舞といえば、前脚と後脚にそれぞれ別れて演じるのを観たことあると思います。
「彼岸獅子」では、ひとりの演者が一体の獅子となるんです。
春を謳歌するこの舞は、豊作と家内安全を祈り、そして、会津のしあわせを、切に切に、願い奉る―。
長い冬が終わりを告げ、春の彼岸入りとともに、
2017年会津彼岸獅子開催日
毎年春分の日に開催されています。
2017年も予定通り開催されると
平成29年3月20日の春分の日です。
会場
鶴ヶ城、阿弥陀寺、ほか市内各所
住所
福島県会津若松市追手町1-1(鶴ヶ城)
アクセス
鶴ヶ城 :ハイカラさん・あかべぇ「鶴ヶ城入口」下車、徒歩7分
阿弥陀寺:ハイカラさん・あかべぇ「阿弥陀寺東」下車すぐ
歴史
会津彼岸獅子は春の彼岸に行われることから、彼岸獅子と呼ばれています。
彼岸獅子がどこからいつ伝わったかというと確かな歴史がないそうだ。
栃木県から伝わったのでは?とは言われているが、不明です。
村に獅子団というものが存在しており、彼岸の時がくると春を告げるように舞い歩いた。
今に伝わるまで戦争などがあったり、後継者不足から活動するのが困難な状況もあった。
ただ、会津を代表する伝統芸能であるので、これからも続いてほしいものです。
獅子ってなんで「しし」と呼ぶ?
古代の日本においてシシとは「獣一般の呼び名」であった。
昔の人々は獣を総称して『シシ』と呼んでいました。
獣の代表は、
鹿、猿、猪などでこれらは全部『シシ』と呼ばれていました。
獅子舞の由来
獅子舞の由来は古代人の狩猟生活の中にあるといわれています。
昔は、コメなどはなく、獣をとって生活していた。
男たちは石槍や石斧、あるいは原始的な弓矢を用いていた。
貝や木の実、海草など食べれれるものならなんでも採集し食べていた。
獣がいなくなれば、次の場所に移動しなければいけなかった。
獲物がとれる保証などはなく、食物不足になることもあった。
飢餓死になることもある。
獣がとれるかとれないかは、死活問題であった。
そこから、獣の豊猟と供養とを兼ねたささげる踊りが発生した
その踊りがやがてさまざまの芸能に転じて今日にまで伝わってきているのである。
消滅した踊りもたくさんある。
今現代に残っている踊りはごく一部である。
戊辰戦争時の彼岸獅子
戊辰戦争時に彼岸獅子が使われたエピソードがあります。
戊辰戦争時、新政府軍は若松城下に迫り、鶴ヶ城は、あえなく包囲されてしまった。
鶴ヶ城に籠城していた会津藩主・松平容保(かたもり)公は、
南の日光口(南会津町田島)の守備に当たっていた、若き家老・山川大蔵(後の、山川浩陸軍少将)に、使者を出しました。
兵が少ないので帰ってこい!ただなるべく戦闘をさけ、城に戻ってこいと!
大蔵はただちに鶴ヶ城に戻ろうとするが、新政府軍によって囲まれている。
突破せぬば、城には入れない。
そこで、奇策が出た。
「彼岸獅子」と共に、堂々、行進しようというのだ。
勇気ある独身の男を招集させて、「小松獅子団」を結成した。
平均年齢16歳。
新政府軍が包囲している死地に赴いて、しかも、楽を奏で踊りながら行進するという
一団は、楽手を先頭に、お囃子を“とひよれよれ(笛の調子の擬音)”と吹き鳴らし、川原橋を占領していた長州藩と大垣藩の南側を、堂々、行進していった。
新政府軍は、拱手(こうしゅ)して、呆然、見送るのみだった。
無事に入場することができたのだ。
失敗すれば死んでしまう。彼岸獅子によって、この困難な状況を乗り切ったという。
まとめ
彼岸の時に会津で行われる伝統芸能「会津彼岸獅子」
春の訪れを告げる、そして人々の幸せを願うために、獅子が舞ってくれる。
一人の演者が1匹を演じる、通常の獅子舞と違うのが特徴です。
どういった形で、現在の形に落ち着いたのか定かではないですが、願うのは
人々の幸せな生活です。
3月は会津彼岸獅子の獅子舞の勇士をぜひご覧ください!
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